江戸の菓子司として最も著名な人物のひとりと言えば、おそらく大久保主水(おおくぼもんと)だろう。名を忠行といい、家康に仕えた三河武士で、江戸城や市中へ水を引く神田上水を完成させたことで知られているが、一向一揆の際には足を負傷していたため参戦できず、代わりに菓子作りの特技を活かして家康に献上したことを機に菓子司としても重用された。水道事業の功績を賞され、主水の名を下賜されるが、その後も代々に渡って将軍家に菓子を納めていた。
余談ではあるが、唯一現存すると目されている主水の肖像画は、主水が家康に餅菓子を献上している図柄で、所有者は作家・内田春菊さんのご主人(主水の子孫)なのだとか。この大久保主水の店をはじめ、将軍家や諸藩の御用菓子司の店、京都の禁裏御用菓子司の出店などは、江戸の有名菓子所として『万買物調方記』(元禄5年/1692刊)などに紹介されており、その多くが江戸の一大繁華街・日本橋に店を構えていた。
しかし、そういった高級な菓子ばかりが江戸でもてはやされていたわけではない。当時、庶民の間で人気を集めた菓子のひとつにきんつば(金鍔)が挙げられるが、そのきんつばで評判が高かったのが、「井筒屋」という屋台の菓子屋だった。
菓子に限らず、寿司や天麩羅など、江戸時代には屋台が大変流行していた。目の前で調理されたものをその場で食べられるというスタイルが、江戸っ子の気質に合っていたのだろう。井筒屋も日本橋のたもとで屋台を出し、小麦粉と卵の生地を薄くのばしながら餡を詰め、鉄板で形を整えながらきんつばを焼いていたという。
井筒屋の三代目・細田安兵衛(榮太樓總本鋪初代)は幼名を榮太郎といい、親孝行の働き者として魚河岸で知られていた。そのため、魚河岸に集う人々はいつの頃からか井筒屋のきんつばを「榮太郎のきんつば」と呼ぶようになったという。
その榮太郎が屋台を畳んで日本橋の西河岸に店舗を開いたのが、安政4年(1857)のことだった。客の入るスペースは間口一間半。狭いがゆえに、行列をなし易く、繁盛店に見えるという効果もあったようだ。井筒屋から榮太樓と店の名を改めた後も、榮太郎は「甘名納糖」「梅ぼ志飴」「玉だれ」など、独自の菓子を次々と創製していった。これらの菓子は現在も、榮太樓總本鋪の代表銘菓として人気を呼んでいる。
榮太樓の初代は菓子職人として財を成し、本所にあった旗本の別荘を購入するのだが、その屋敷の庭には、旗本が将軍家光から拝領したという老松の大樹が植えられていた。榮太樓は創業当時にはかつての屋号「井筒屋」の井桁を商標としていたが(現在も店員のはっぴなどに井桁模様が残る)、明治10年以降は本所の屋敷の老松を表す七段松の意匠を用いるようになった。
現在も、創業当時と同じ場所に店を構える榮太樓の店先には、この七段松の意匠を染め抜いた大きな紺暖簾が張られている。店は日よけ暖簾は必要ない方角に建っているが、大通りから一歩中に入った所であるため、創業当時からあえて大きな暖簾を張っているのだという。安政の昔、これと同じような立派な紺暖簾(当時は井桁が染め抜かれていたのか)を張った店を誇らしげに眺める初代の姿がここにあったのだろうか。
現在は7代目が経営にあたっている榮太樓の前に立つと、魚河岸の喧騒が聞こえてくるような気がしてくる。創業当初は客の入れる場所は間口一間半だった。現在でも榮太樓に入ると、玄関先の一間半のスペースが四角く囲まれている。初心を忘れないという精神が表れている。
余談ではあるが、江戸、特に日本橋界隈の店の多くは紺に白抜き文字の暖簾、京都から江戸に移った店(とらやなど)の多くは白地の布に黒文字の暖簾を使用しているという。
榮太樓の代表銘菓
【金鍔】
現在、一般によく見かける「きんつば」の多くは、六方焼のような角型のものだが、榮太樓總本鋪の「名代金鍔」は円盤型だ。「きんつば」は元々、1600年代後半に京都で考案された「銀つば」が江戸に伝わり、「金つば」になったと言われている。
米を原料とする上新粉で皮を作った「銀つば」は、その形状や色が銀製の鍔(刀の柄と刀身の間に挟む平らな金具)と似ていたことから、この名がつけられたという。
当時、京では銀が、江戸では金が流通していたことから、京の銀つばに対し、江戸では金つばと呼ぶようになったといわれている。あるいは、江戸っ子が「銀よりい金の方が景気がいい」として「金つば」と呼ぶようになったのだ、とも。皮も、江戸に伝わってからはより安価な小麦粉に変えられたようだ。上新粉皮は白、小麦粉皮は黄金色に焼けることから「銀」「金」と区別されたとの説もある。
明治期になると、神戸の本高砂屋が江戸の丸い「金つば」を四角くアレンジして売り出した。この角きんつばが、いつの間にか定番となっていったのだ。つまり、上方で考案されて江戸に広まった「金つば」(元は銀つば)は、本高砂屋によって上方に逆輸入されたということになる。同時に、鍔の形はなくなり、名前だけが残ったというわけだ。
しかし、榮太樓では現在も江戸時代と変わらぬ製法で丸型の「金鍔」を作り続けている。円形の上面には、アクセントの黒胡麻。両手でふたつに割ると、つぶつぶの餡がほころぶように顔を出す。製法も、もちろん昔のままだ。小指大ほどの生地の中に、餡をぐいぐい押し込んでいく。皮は限りなく薄く伸びるため、焼いた後での食感もほとんどその存在を感じさせない。六法焼風の四角い「きんつば」のように皮はごわごわしていない。中の餡のしっとり感だけが残る。江戸の庶民が楽しんだ榮太樓の「金鍔」は、楊枝など使わず、そのままぱくりとかぶりついて頬張りたい。
ちなみに、現在のしんだ榮太樓の「金鍔」には、「金」「銀」の区別はないが、通常の「金鍔」と「栗金鍔」の2種類がある。
【甘名納糖】
「甘名納糖」も初代榮太郎が考案した菓子のひとつ。当時、安価だった金時大角豆という小豆の一種を糖蜜で煮詰めたもので、これも庶民の味方、榮太郎ならではのアイディアだったと言えよう。
「甘名納糖」は、浜松名物として江戸でも知られていた「浜名納豆」(味噌を粒状に固めたようなもの、浜納豆)をもじって命名したという。江戸っ子らしい洒落っ気だ。この「甘名納糖(あまななっとう)」が訛り、いつしか「あまなっとう」と呼ばれるようになり、甘納豆の字が当てられるようになった。今ではすっかりお馴染みのお茶請けである。
ちなみに、現在の「甘名納糖」には、赤飯などに使われるささげ豆を使用している。
【玉だれ】
【梅ぼ志飴】
お茶席などでよく出される有平糖は、色や形で目を楽しませてくれる甘い細工飴菓子だ。有平糖の語源はポルトガル語のアルフェニンまたはアルフェロア(砂糖菓子)で、カステラやボーロなど共に16世紀半ば以降にヨーロッパから伝来した菓子である。
榮太樓初代がこの有平糖に工夫を凝らして作ったという「梅ぼ志飴」は、今も昔と変わらぬ榮太樓の代表銘菓だ。創製当時、飴といえば麦芽糖や水飴などを使った飴しかなかったのだが、初代現在は砂糖そのものを飴にするという、今では当たり前の手法を用いた。いわば、発想の転換である。一口サイズのこの飴は、役者などが口に含んで舌なめずりをして、唇につやを出すのにも用いたのだとか。梅ぼ志飴の他に,も、黒飴、抹茶飴、紅茶飴がある。
店舗情報
榮太樓總本鋪
菓子: 金鍔(1個189円)、栗金鍔(1個231円)
玉だれ(1本1050円~)
甘名納糖(袋入630円~)
榮太樓飴「梅ぼ志飴」(各347円~)
日本橋まんじゅう(1個105円) 他
住所: 東京都中央区日本橋1-2-5
電話: 03-3271-7785
営業時間: 9:00~18:00
定休日: 日曜日、祝日
URL: http://www.eitaro.com/
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